233号-2016.12.25

[ 2016.12.25. ]

233号-2016.12.25

ちょっといい話がある。弊社のT店長のことだ。
入居者のEさんとの出会いは、ある老朽化マンションの管理替えで当社が受託したことによる。このマンションは「既存不適格建築物」となる建替えの効かない、第一種住宅専用地域に建つ、築50年4階建てRC造2LDK 16戸だ。権利関係も複雑で底地は借地で、建物は分譲による区分所有だ。このままでは底地所有者が売却等何もできないので、一戸ずつ買い取り定期借家権で賃貸していた。

 

その買い取った部分の戸数を当社が管理することになり、その中にEさんが入居していた。
Eさんは当時80歳、脳梗塞を患い、右手が不自由で、足腰も弱っていた。週3回支援ヘルパーが訪問していたが、日常生活には相当不便を感じていたようだ。

管理替え時に当社のS課長(当時)が、挨拶に伺い世間話をしていたが、室内が古い書籍に埋め尽くされており、聞いたところ、東大文学部卒業で、ある大手出版社で編集の仕事をしていたという。小説家を夢見て退社独立したが、なかなか売れず、離婚も経験し孤独な晩年を送っていた。
定収入もなく預金を取り崩し、余命を計算して暮らす厳しい生活をしていた。外に出かけることもなく、毎日部屋の中で趣味は今までの蔵書を読むことだった。
そのせいか、びっくりするほど博識で、S課長もEさんに劣らず読書家で知的好奇心が旺盛なため二人で話が盛り上がり、最近のベストセラーなどを持参するなどして人間関係を作っていた。唯一の楽しみはコーヒーだが、体が不自由なためインスタントしか飲めず、本格的ドリップコーヒーを飲むことが夢だということを聞き、部下のT店長が持っているコーヒーメーカーを持ち込み3人で飲むことも多くなった。
そうこうしている内に外に連れ出す事にも成功し、ファミリーレストランや当社が管理している物件の「居酒屋」にも行くようになった。その際、T店長が背中におぶりその場所まで連れて行った事もあったし、勤務時間外でもT店長やS課長が自宅を訪問し度々世話をしていた。

生活保護の申請を何度も勧めたが、大正人の気質からか断固として拒否していたため、生活は窮乏を極め賃料の安い移転先を探すことが必須となった。色々と探し、事情を話したところ貸主も快諾してくれたため当社管理の木造アパートに移転させ、生活に余裕を持たせる事が出来た。月に一度は新百合ヶ丘駅周辺のショッピングセンターや絵画の展覧会等にも連れて行ったらしい。担当のケアーマネージャーも親族でもしないような事をここまでする人は見たことも聞いたこともないし、ましてこんな不動産屋さんがいること自体初めてだとわざわざ来店されお褒めの言葉をいただいた。

Eさんも、居酒屋やファミリーレストランは今生行くことはないと思っていただけに、感慨深いものがあったと言っておられた。気難しい方だったが、当社の社員のビジネスを離れた対応が頑なな心を開いたかもしれない。1年後体調を急に崩し、入院数日後に亡くなった。その後の手配も福祉事務所と連携しS課長、T店長が執り行い無事に終了した。

不動産管理会社として当然のこととして今まで社内にも、取り立てて話はしなかったが、T店長の退職時に私がこの逸話を話したため、懇親会場は一瞬どよめきが走った。彼自身は殊更にPRすることもなく今に至ったわけであるが、針小棒大に自分の利益になる事は言いふらす輩が多い中で、事の次第を知っている社員は少ない。その時も彼はあまり話すこともなく、ただ「私はS課長(今は専務)の黙ってやる姿を見て、僕も仕事とはこういうものだ!と教えられた」と話していた。

 若い頃から人生の生き方を常に模索していたようで、男の矜持と美学を持っていた青年だった。中学からスポーツ一筋で大学でもスポーツ奨学生できていたが、膝を壊し大学2年でプロを断念し、卒業後ある中堅のディベロッパーに就職した。3年勤務したが上司とそりが合わず、知人を介して当社に入社した経緯があった。先輩後輩の序列、挨拶態度、ルールにことのほか気にすることが多かったが、反面、実力のない上司や理不尽な事柄には徹底的に反抗した。

常識的に言えばこのような社員は、上司からは「煙たい、うるさい社員」とレッテルを貼られ、サラリーマンとしての栄達は難しいと思われる。こういう社員こそ大規模組織ではなく、小回りの利く小規模の組織で本領を発揮できるのだが、ある意味でそのような上司の下で働けたこと自体が彼の人生でも大きく影響を受けたことだろう。

失敗も多かったが当時の上司であるS課長が、すべての尻ぬぐいをしていた。「チャレンジして失敗したことには決して怒らず、するべきことをしないで失敗したことについては徹底的に怒った」だからS課長の下での退職者は必ず、「ご指導ありがとうございました」と挨拶をしていた。

彼の逸話はこれだけではない。
ある時、悪役レスラーで有名な方が、当社の管理物件に格闘技の道場を開設したいと申し込んできた。今では珍しくもないが当時は業種から言って「胡散臭い」もので、定職がない元プロレスラーでは、貸主の承諾をとるのは至難と思われた。ただその夫人が元体操日本選手権で入賞した経歴のある方でその業界では知名度があり、また、市のカルチャー教室などで教えていた為、教育熱心な近隣の親からは一定の評価を得ていた。夫の方は一部のマニア以外は知名度もなく、体格も普通の大人の1.5倍はある巨漢で外見も強面の人であった。通常なら賃料支払いの裏付けがない「水商売的な職種」でお断りするケースであったが、T店長の強力なサゼッションもあり入居させることになった。

場所は地下であったが予想に反し、日中から上階まで「バシッ、ドスン、ギギー」と異音が発生し、他の入居者からのクレームが出てきた。厚手のマットを引き、サンドバックのチェーンを改善すること等で異音は低減し、教育熱心な母親などの好意的な評判もあり問題はなくなった。

折衝窓口は当初のいきさつから彼が担当していたが、ある時、当該の入居者からクレームが入り、「どうも彼が気に食わない、変えてくれ!」という話がS課長を通じてあった。

理由を確認すると、「口の訊き方が横柄だ!」ということらしかった。彼としては寝耳に水でびっくりしたと思うが、担当を変えることにした。彼は渋々承諾したがその後の対応が違っていた。

それは2年後、その入居者が自宅を購入して自宅に道場を作ることになり退去した時点で判明した。その期間、彼は断われながらも自宅に日参し自ら終業後の後片付け、子供の見守り等を愚直に行っていた。

その辺のことも考慮され、第一印象は悪いが彼なりの人物を評価してくれたのだ。
なかなかできないことだ。通常は「相手のせいにして自己弁護に走る」のだが、水面下で汚名挽回した努力は買ってやりたい。彼自身の生活態度や表現方法には毀誉褒貶(きよほうへん)もあるが、今は軽くなった「自己責任」がまだ残っていたのだ。自己責任は組織を出る(辞職)ことではない、組織内で結果を出し如何に苦しくとも逃げない事である。最後には彼は出て行ったが、後半の彼は別人のように冷めていたのが気にかかる。持病のせいもあるかもしれないが、私生活上の問題も影響しているかもしれない。人生の先輩としてそこまで踏み込めなかった点は悔いが残るが、たぶん彼は拒絶しただろう。

当社のような地域密着型中小企業は営業エリアでの評判は命運を決する。大手のように此処がだめなら彼方へとはいかない。社員も企業も逃げられないのだ。ここで骨を埋める覚悟が必要なのだ。

その地域にあるだけで「地域密着を標榜する」企業は多いが、頼りがいのある会社を目指したい。

社長  三戸部 啓之