348号-2026.9

[ 2026.9.1. ]

348号-2026.9

企業経営は軍隊と似ているところがある。いかに組織として活用し、運用していくかが命題となるからだ。その証拠に、軍事用語がそのまま経営学用語になっているモノが多い。戦略、戦術、ターゲット、ローラー作戦、オペレーション、フロントライン、リーダーシップ等だ。特にピーター・ドラッカーやマイケル・ポーター等の経営学者が、軍事戦略をモデルにしたことで、用語がそのままビジネスに流入したといわれている。戦う手段と戦うモノが違うだけだからだ。軍隊では兵器で拠点を奪い継戦能力を奪うものだが、企業は商品という武器で市場を占有することだからだ。経営戦略論、人事労務管理論、経営組織論や市場論、経営管理論等が、その経営学版といえるだろう。組織の要諦は、いかにモチベーション(戦意高揚)を維持するかにかかっている。それは、個人の努力だけでなく、環境作り、関係性、仕事設計の3つが大きく影響する。モチベーションの大きな要因として承認欲求がある。承認はご褒美ではなく「燃料」と考えられる。

軍隊はヒエラルキーの中でも、部隊長になったり、尉官になったりして評価されるなど、承認欲求が満たされる場でもある。貧しい農家の二男坊も、陸軍や海軍の学校に行けば勉強させてもらえる、食事はタダだし、おまけに給料までもらえる、立身出世もでき故郷に錦を飾れる。つまり、軍隊にはソーシャルモビリティーを高める機能もあった。ソーシャルモビリティーが高い社会ほど、産まれた家庭の経済状況に縛られず、努力や能力によって人生を切り開きやすいとされている。逆に低い社会では、貧困層は貧困のまま、富裕層は富裕のまま固定化しやすく、格差が世代を超えて再生産される。財産も貰えず、体一つで生きていかなければならない農家の二男坊、三男坊にとって生きる道は、都会に出て工場に勤めるか商店の丁稚になるしかなかった。勿論、頭がよく優秀な二男坊以下は陸軍幼年学校に入れる道もあったが、入学することは至難の業で、入学すれば村を挙げてお祭り騒ぎとなるのが一般的だったという。このように努力のプロセスを認め、地位が上がることで裁量を少しずつ広げ、徐々に意思決定の場に参加させることが、自主性の確保につながる。自主性の確保こそが、自由平等の基本原理である。

近代合理的経営の起源は軍隊といわれる。戦争は目的合理性に基づいて効率的に組織を運営しなければ勝てない。15世紀あたりから銃や大砲で戦争するようになると、戦争が大規模化し、もはや、武勇だけを重んじる貴族感覚では勝てない時代になった。そこで軍事組織の合理的効率的な運営や規律が重要になる。そこから合理主義の発想も生まれてくる。軍隊に発する近代合理主義は民間にも応用され、経営の中に広まっていく。戦争の大規模化で多額の国家資金が必要になるので、そこから国家財政やマクロ経済の運営という発想も生まれる。特に総力戦になると多くの人間を動員するので、平等のメカニズムが発生するとともに、そこから能力主義によって能力のある人をどんどん登用していくようにもなる。要するに戦争が近代という時代を作り出したわけだ。戦争による平等というイデオロギーも加速した。その点では、近代戦争というものは見方によれば民主的だともいえる。信賞必罰という概念もアウトソースという観念も軍隊の持つ特徴である。生産性=合理化を極限まで追求する軍隊組織での発想だ。批判はあるが、旧日本陸軍の初年兵教育は「内務班」と呼ばれる生活単位に所属し、過酷な鉄拳制裁を含めた精神教育が実施された。兵士を「国家に尽くす存在」として育成する思想を叩き込んだのも、強い集団規律の形成の為だった。

近時でも高いスキルを持つ人材は、業務委託やアウトソーシングで活用すればいいのであって、むしろ社内に抱え込むべき人材は、会社の文化を良い方向に変える力を持つ人材である。外資系企業でも、スキル以外の要素は重視されており、問題を前向きに捉え、状況をどう良くするかという態度も重視されるのだ。国内では、日立製作所の人材改革も注目されており、同社は求める人材を「自燃性(自発的な成長)」と「可燃性(文化を変える巻き込み力)」を備えた人財と定義し、能力の高低よりむしろ社内変革に対しての意欲や気構えといったマインドセットを重視している。指揮官の指示に忠実に従う人材を徹底的に育成する軍隊の機構と、会社経営は基本的に違うが、近時の軍隊では自走自立型の人材を育成し始めている。つまり、企業社会ではマーケットは変化しており、それに合わせた人材育成が必要になっているが、軍隊でも同じように戦場の戦い方が変化しているのだ。師団同士が戦うという大規模な戦場ではなく、ゲリラ戦という小規模な戦場に変わりつつあるからだ。そこでは指揮官の命令に忠実に従う兵ではなく、その場その場に応じた戦い方ができる米国海軍のシールズとか陸軍のグリーンベレーのような特殊作戦部隊が必要とされている。訓練は徹底を極め、戦闘技術をはじめ「極限状態での冷静さ」「仲間を優先する姿勢」「任務遂行への執念」の刷り込みである。個人主義、自由主義を標榜する米国でのこの組織と訓練は我々には奇異に写るのではないだろうか。

原理的個人主義、自由主義者を標榜する一部の人たちからは、歴史的な反省の上に立った言辞であると思うが、その根底にあるものを糊塗している可能性がある。現在の野放図な若者の生き方を見ると尚更だ。最近では転職が当たり前になり、「石の上にも3年」という言葉も死語になり、大卒で3年以内退職率3割という異常事態だが、その異常さを指摘する人は少ない。勿論、大広告主である転職支援会社に異論を唱えるマスコミ人は放擲されるだろうし、表立って正論を吐く機会が少ないのが現状だ。思い出してほしい。つい40年前ではいったん就職して3年で退職する人間は、「堪え性がない中途半端な人間だ」と言われたものだし、まして若いくせに就職しない人間は「プータロー」と蔑まれたものだし、その親も近所から子育てに失敗したと揶揄され肩を狭くしたものだ。ところが1980年代のアルバイト情報誌「フロムエー」が「フリーター」という言葉を氾濫させた。「自由で自立した働き方」を意味し、一つの生き方として、ポジティブな意味合いで定着した。その後、就職氷河期で正社員になれない若者が増えた事で「非正規雇用で不安定な立場の若者」というネガティブな意味合いに変化した。マスコミの言辞に振り回された若者や、その親も多かったと推測される。以前のように就社ではなく就職になると、企業側も対応を変えざるを得ない。

つまり、退社を前提に業務を考えなければならなくなる。属人的なものをなくし経験ノウハウを記録化し、いつでも再現化できるようにDX化が促進される。業務も単純化し、マニュアル化され、いつでも前線に復帰できることになる。それがパート雇用の増加に繋がり、産休の長期化を可能にし、その復帰も容易になったわけだ。更に、男女の性差に区別する必要もなくなり同一賃金も制度化された。AIが進めば益々人間の雇用は少なくなり、少数の意思決定要員とマネージメントができる人材のみが必要とされる社会もすぐそこに来ている。となると益々格差が広がる社会となってくる。富裕層と貧困層の二極化である。職業選択も自由ではなく少数の意思決定ができる人間とAIを使いこなせる人間と、エッセンシャルワーカーと呼ばれる生活に不可欠なサービスを提供するラストワンマイルを担う人間だけが必要とされる社会になってくるのだ。

近代社会が築き上げた民主的な自由な社会ではなく、徹底した管理、監視、抑圧が支配する社会であるデストピアの出現である。J・オーエルの「1984年」、R・ブランドベリ「華氏451度」等、様々な映画や小説で描かれているが、現代社会の警告としての側面を持っている。

我々は「ゆでガエル現象」に陥らないように、様々な微細な兆候に、もっと注視する必要がある。

 

アーバン企画開発グループ相談役/合同会社ゆいまーる代表社員 三戸部 啓之