会長の独り言

会長の独り言

[ 2022.6.1. ]

299号-2022. 6

日本弱体化計画が進行中?日本人そのものと日本国である。

日本人の、その延長線上に日本国の弱体化がある。それは地政学的な意味においてであるが、とりあえず此処では日本人を取り上げよう。


夢を抱かせない、意欲を持たせない、働かない、働かせない、競争意識を持たせない、落ちこぼれを作らない政策だ。夢を抱かせなければ意欲も出ない。働かないで食えれば誰も働かない。競争意識を持たさなければ、他人より抜き出る必要がないし、皆平等になり落ちこぼれ自体がなくなる。


世の為政者は、それをダイレクトには言わない。人権の尊重とか個人情報保護とかのオブラートに包む。特に「働き方改革」が出てから輪をかけておかしくなってきた。これも「ウサギ小屋」批判と同じく欧米からの要求だ。

競争の土台を変更して自国に優位なようにルールを改正するのだ。オリンピックのバサロ泳法しかり、競泳スーツ、日の丸飛行隊のスキージャンプの変更などの実例がある。

ISOシリーズもECからの貿易摩擦対策だ。ある意味わがニッポンは明治以来、欧米からの重圧に翻弄されてきた。更に2020年3月から始まったコロナ感染が災いした。日本独自の家族的経営が否定され、精神的故障者が続出したのだ。

小さいとはいえ、企業経営を35年続けていると、社員の気質の変化に直に接する事になり、その変化に驚く。従来の雇用側の意識が全く通じなくなったのだ。

被用者側に勤労の義務という意識はなくなり、雇用の権利だけが闊歩するようになった。仕事に対する責任が昭和の時代とは違うのだ。
昔は納期が迫っていれば、徹夜は当然だったし、内容に不備があれば何度でもやり直しは起こり、叱責もある。それが勤務評定に反映され、昇格昇給にもつながった。

所定の能力がなければ閑職に異動されることもあり、退職もやむを得なかったし、それに異議を唱える手段もサポートもなかった。欧米の批判のもとになった「年功序列」だが、「年次序列」の誤解も甚だしい。元々日本には「年功序列」が当たり前で「年次序列」は一部の官僚組織しか妥当しないのだ。

事実をよく点検すれば、敗戦責任追及を前提にした戦前の全否定から糾弾された軍官僚の事例に過ぎない。営利を目的とする大多数の企業では「年次序列」はなく「年功序列」だったのだ。ただ解雇規制があったために未徹底だったに過ぎない。
経験に応じて功績やスキルがアップする前提が年功序列にはある。最近はそれが通じなくなってきた。適材適所という企業側の権利が制限されたのだ。「不本意な異動」と認定されると人事権が発動できない事態になる。コレでは企業のガバナンスは意味をなさない。
休暇も本来労働の再生産のためにあるが、今や生産とは全く切り離されている。プライベートという時間で何に使おうと自由だという事になった。

「男は仕事、女は家庭を守る」という固定的な性的役割分担が少しずつ曖昧になったことで、家事・育児は妻側だけではなく、夫側にも当然の義務となった。「主婦から主夫」という言葉も生まれた。
プライベートという時間ができたことで副業も禁止する内容ではなくなった。企業側の拘束時間は益々短くなり、生産性を上げなければ企業の存続はより難しくなってきた。生産性が上がらなければ従業員の所得も上がらない。低賃金で雇用すれば離職は加速する。
そこで不本意ながら副業を認める事態になった。その結果益々、愛社精神、社内融和は遠い昔のおとぎ話になりつつある。それを後押しする「働き方改革」という制度的支援もあり、旧来の美徳とされた慣習は否定された。

そして、最近多いのは鬱による休職だ。以下のような項目で、鬱の傾向があるかが判る。
これで100%認定されるわけではないが、これでは誰でも鬱になってしまう。極端に言えば個人的理由で、仕事が嫌になれば精神科に行って下記の症状を言えば、診断書に「〇日間の休職が必要」と書かれることになり、企業側は認めざるを得ない。そのうえ傷病手当金が最高1年6ケ月支給される。

企業側に原因があれば「労災」の適用になり、企業側への責任追及は厳しい。採用側として常に戦々恐々として従業員に接する事になる。

当然、仕事の進め方や教え方も下手をすれば「昭和の営業」とか言われ化石のような評価になってしまうから「古い」と及び腰だ。失敗の叱責もできず、組織の規律もあいまいになれば企業体としての維持はできない。全く意欲のない社員でも雇用したら最後、相手が自主的に「退職願」を持ってくるまで解雇もできないのだ。だから「窓際族」「ローパー社員」「会社の妖精さん」とかもニッポン特有の種族だ。問題なのは企業の存続は顧客あってのものだが、その視点がなくなってきたことだ。つい最近まで「物言う株主」との視点から株主偏重主義が唱えられ、そのマイナス効果から今度は従業員尊重主義になった。特に2040年労働生産人口が5250万人になるという危機意識も背景にある。同じ企業をささえるステークホルダーとしては株主、従業員、顧客、世間と「四方よし」が必要だが、いつの世もある一点だけが強調される事が問題だ。

「SUITS/スーツ」というアメリカのドラマをご存じだろうか?米国の司法試験に合格していないが、なんでも一瞬に覚えることができる頭脳の持ち主である無資格弁護士と、絵にかいたエリート弁護士でありイケメンの切れ者弁護士の話である。ここでの教訓は日本では想像もできない競争原理と司法取引である。このドラマによると、アソシエイト弁護士にとって上司であるパートナー弁護士の言うことは絶対で、1、2年目は奴隷のように働かされる。まして資格がないパラリーガルは尚更で、年収も10倍以上の差がつく。顧客に対してタイムチャージで請求するため、長時間労働は当たり前。年に2000時間はマストで、目標は3000時間。それ以外にも勉強や業務はあるので、最初の数年は自分の時間がほとんど持てない。さらに、日本と違って『こいつは使えない』と思われると即クビ。高給の代わりに競争は激しい。

このような競争社会が当たり前の中で、なんと我がニッポンの業界はぬるま湯なのだろう。就労は社会権ではなく、ましてや生存権でもない、れっきとした対価関係にあるべきだがなぜか、旧態依然とした階級意識が根底にある。雇用側より被用者側の論理がまかり通る。欧米の良いトコ取りで、世界に通用しない「解雇制限法理」なんてものが当たり前のようにある。業務に使えない社員は当然クビになる!これは世界標準だ。

これを受けた被用者側はやりたい放題で、業務の都合など関係なく退職となれば退職日から逆算して有給休暇を完全消化し、使いものにならない社員でも簡単に解雇できない。意に添わない業務だとすぐに退職する。子供の時からの訓練が足りていないから、我慢というものがない。
不祥事を起こした社員にも、退職金や解雇予告手当を払うことになる。一昔前の「使えない奴」は今では「卒業」という程、相手の自尊心に気を使わなくてはならなくなった。こういう事を書くと「昭和の営業をしている会社」「社員を大事にしない会社」とか言われる世になったが、企業の本質は戦力となる社員がどれだけ在籍するかだ。賃金をとるというなら、それなりの成果を要求されるのは当然だし、戦力外通告も当たり前だ。プロスポーツとどこが違うのか!不思議でならない。国力の衰退は、国民の減少と勤労意欲の欠如で決まる。防衛力もしかりだ。

                                                                                                       会長  三戸部 啓之

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