224号-2016.3.25

[ 2016.3.25. ]

224号-2016.3.25

 パワハラ防止は社員教育の中でも重要項目のひとつになっている。
我々団塊の世代は、パワハラなんていう言葉自体もなかったし、上司からドヤシつけられ、罵倒される中で仕事を覚えようと必死だった。
仕事を覚えるには、教えてもらう事が必要だったし、何を言われようが「一人前になるまでは我慢する」のが、当たり前だった。「教える側には教える自由」があった。つまり、気に入らなければ、教えなくてもいい自由があった。だから、少々のことには我慢し、気に入られようと必死だった。人より早く覚えれば、「仕事ができる奴」と評価された。そこには厳然とした職階があり「教える人は偉い人」だった。偉いから生殺与奪の権限を持っていたし、社会もそれを是認していた。

昔で言うと「出社に及ばず」か「使えない奴」は意に反した処遇を受けた。そこには徒弟関係という職階が歴然としてあったし、教えてもらう側には「無給」「我慢」が当然だった。組織から逸脱する人間は「異端児」「堪え性がない」「落ちこぼれ」「転職・退社」として中途半端な人間として排斥された。親や家族も子供にそういう教育をした責任を批判され、肩身の狭い思いをした。無事定年まで勤め上げ、住宅双六にあるような「マイホームがゴール」という単線的な人生観が根底にあった。そこから外れる人生はそもそも異端だったのだ。いい大学を卒業し一流企業に勤め、一男一女を育て無事定年を迎えることが、一般庶民としての人生だった。  義務教育の中でも例外ではない。昔といっても、つい40~50年前だが、小学校、中学校では今で言うパワハラは日常茶飯事だった。私も「宿題を忘れれば、廊下に一時間は立たされた」し、悪戯をすれば「往復ビンタ」や「机の上で授業時間中正座」は当たり前だったし、廊下に水を入れたバケツを持たされ一時間は立たされた事もある。頭をたたかれ瘤を作ったことも多い。家に帰っても、それを言えば親から「馬鹿!お前が悪い!」とかえって怒られた。それを聞いた親は即、担任に謝ったものだ。知識を持っている人間に対しては「教えていただく」という尊敬があった。

何時のころからか、「教えてもらう権利」が台頭しだした。従来の教える自由はなくなり、教える側にとって教える事は「義務」になった。学校の先生も「聖職」から「労働者」になった。生徒も「消費者」になった。ビジネス論理である「消費者志向」が教育面でも明確になったのだ。
職場でも「労働の義務」より「就労の権利」が重んじられた。戦後の教育の中で「パラダイムの転換」があったのだ。戦前のものは全て否定され、反民主主義と位置づけられた。民主主義は崇高なものとされ、その掛け声の下に様々な改革が行われた。

教師と生徒の関係も対等と位置づけられたため、生徒は「お客様」という消費者に代わった。お客様の意向に沿うべき教育では、「落ちこぼれ」はありえないし、子供(投資)の出資者である親の意向は尊重しなければならない。「モンスター・ペアレント」の出現も当たり前になってくる。「自分の子供の成績が悪ければ教え方が悪い!」とクレームがつく。それも「教育という商品」を販売しているからだ。教育という商品に瑕疵があれば売主責任を問われる。会社でも同様だ。労働法規上、被雇用者の権利保護は当然だが、度を越せば権利の濫用になる。「権利の濫用法理」は公平の概念から導き出されているはずだが、被雇用者からは「権利の濫用法理」はよく使われるが、雇用者(使用者)側からは適用されない事が多い。未だ前世紀の統治者対非統治者の弱者保護思想が亡霊のように生きている。小難しい法律解釈は脇においてみても、経営側の制約は多い。

雇用者(使用者)責任で全てを判断されると反論は難しい。我々の経営資源は「社員の経験とスキル」しかない。そして顧客に評価されて初めてわが社の存在意義がある。他社以上に「経験とスキル」がなければ顧客の選択肢から外れてしまう。倒産につながるのだ。ただ漫然と出社し、与えられた仕事をこなし、時間が来れば退社するのでは、差別化はできない。

「仕事の中でしか自分を磨くことはできない」それには自ら上位問題にチャレンジし、負荷をかけなくてはならない。ある意味ではパワハラ気味な指示より精神的負荷は大きい。企業の社会的責任も従来以上に大きくなっている。企業の存在意義が問われている。企業の有用性は組織の構成員である社員一人ひとりの有用性を問われているに等しい。それは第三者である消費者から「オンリーワン」と評価されることでもある。組織に埋没するだけの社員ではない。キチンと「個」が評価される社員が求められている。消費者(顧客):チーム(組織):会社(全体)から360度評価にさらされた緊張感がある立場にある。当然、脱落者も出るだろう。経営責任とは言うまでもなく「全体の雇用を守る」ということで「会社をつぶさない」事だ。最近、脱落者を「卒業」というが、競争原理の中で一定の課題をクリアーできない社員に「卒業」という言葉はふさわしくない。卒業とは与えられた課題を修了した社員に与えられる言葉だが、後のトラブルを回避するためか、自尊心を傷つけない語彙が一般化している。戦後日本は母系社会になったといわれているが、「争いは好まず、人よりぬきんでず」が価値観として是となっている。我々が選択した資本主義社会は「勝者と敗者」が鮮明になる社会だ。敗者に対するセーフティーネットは必要だが、それは一企業の責任ではない。少子化を踏まえ国内のマーケットは縮小している。全員が同じ糧を得られる社会ではなくなっている厳粛な事実を直視しなくてはならない。
現に年収150万、300万以下世帯と600万、1000万以上世帯の4極化が言われている。正社員と非正規社員との差も激しくなっている。雇用の階層化が固定化されつつある。ルーティング業務はロボットやITに置き換えられ、益々雇用の場は狭められる過酷な生存競争が水面下で始まっているのだ。戦後の教育の負の結果として精神的脆弱な人間が増えている現実も見逃せない。その主たる原因は我々「団塊の世代」にある。反体制、改革を旗印に既存の組織に挑戦し挫折したトラウマが次世代に影響を与えたのだ。社会的教育責任を放棄した結果が無責任な親を生み出したのだ。
労働人口が2060年に3795万人と今より42%減少する予測もあり、外国人労働者の雇用も常態化する。慣習の違い、価値観の違いもある中で、日本的価値観は通用しないことも考えられる。
何気ないしぐさや、言葉がトラブルにつながることも多くなってくる。そういう中で「パワハラ問題」を捉えると、従来の「日本的村落の中で通用した論理」を見直す契機となる。
パワハラにならない方法をまとめた面白いワード(か・り・て・きneko・た・ね・こ)がある。「か」感情的にならない。「り」理由を話す。「て」手短に。「き」キャラクター(人格)に触れない。「た」他人と比較しない。「ね」根に持たない。「こ」個別に叱る、がある。戦後世代はこれから意識転換を踏まえた人事管理が必要になってきた。

判例でも、部下に厳しい部長に対して「人前で、大声を出して感情的、高圧的かつ攻撃的に部下を叱責する」態度をパワハラにあたるとして、他の要因も重なりうつ病を発症した職員に公務災害の認定を下した。(名古屋高判22.5.21)従来なら組織から軟弱と排除できた社員も、保護しなくてはならない社会になったのだ。つまり戦前で言えば徴兵検査で丙種合格者、不合格者も動員せざるをえない「国家総動員」体制になったのだ。
安倍首相の「一億総活躍社会」も同じことを言っている。
                                   社長 三戸部 啓之