260号-2019.3.25

[ 2019.3.1. ]

260号-2019.3.25

我々は、毎日変わり映えのしない単調な日常を送っていることが多い。
通勤に例えれば、同じ電車に乗り、同じ乗車口から乗り降りし、同じ道を歩き、同じ景色を見ている。仕事も同じようにこなし、同じように退社し家に帰り、何の変哲もない話をし、晩酌をして就寝する。見ようによっては規則正しい生活をしている。

 

人間の脳には現状維持メカニズムというシステムがあって、「変化」を嫌う。だから放っておくといつも同じ人と付き合い、行く場所も、食べる物も、話すことも同じになる。「馴染みの店」「行きつけの店」に行き、常連客となる。変化がないから「気心が知れ、安心する」場となる。惰性で動いているだけだ。

夫婦関係に変化を求めれば、色々と障害や軋轢も出る。相手を変えれば道徳的に問題にもなる。変化はご法度である。変化を奨励する場、変化を求めない場の使い分けが必要だ。それが同じ人間に課せられるから始末が悪い。結局のところアイデアとは、脳の中にある素材の組み合わせなので「新しい素材が入ってこないと組み合わせがいつも一緒になりアイデアに詰まる」という怖いことになる。人間関係に例えれば「飽きが来る」ことになる。生産的関係ではなく発展性はない。関係を続ける必然性がないことになり、組織としては崩壊する。離婚と同じ現象だ。それをビジネスにする「後妻業」も出てきた。

刺激を求める様々な場の提供もビジネスになる、我々のビジネスも同じだ。気付かないうちに現状維持メカニズムの罠にはまり、知らない間にワンパターンに陥ってジリ貧になっている。変化のない狭い地域社会では「安定性」という意味では効果的だが、その反対の世界では種族の滅亡に直面する。行政行為の中で起こる「前例踏襲型」というやつだが、営利企業の中では変化対応型が必要だ。

其の為その構成員たる社員には、人間の本能に反する刺激が求められる。それがストレスとなるか、モチベーションとなるかで深刻な雇用問題に発展する。「イオニスト・ララポーター」という人種がいる。イオンモールやららぽーとで一日中過ごす若者を言うが、このように何時も地元のショッピングモールに行く。そこ一ヵ所で日々の暮らしを完結する若者の増加が話題になっている。しかも其処で収入の48%を使う。自宅の半径20キロメートル圏内だけで行動、社会人になっても中学、高校時代の友人や仲間が交友関係の中心で固定されている。昔も「カウチポテト族」という一日中部屋の中で、ポテトをかじりながらテレビを見て過ごす若者がいた。いつの時代にあってもその手の若者が存在した。20代の男性は約半数が一年間に一回も旅行に行っていない。彼らのパスポート取得率も5.9%しかない。

「2015年度全国都市交通特性調査」によると休日の外出回数は1日当たり1.43回、70代の1.6回を下回り外部に全く関心がない地元中心主義である。つまり池の中から出ようとせず、その中で一生終わるのも別に違和感がない。ある意味、その狭い中で完結しているから外に出る必要性を感じない鎖国状態に近い。ガラパゴスのように進化せず独自の生態系を持つから別名「ジモティー」ともいう。

このような若者が増えている。近代社会とはある面、半径1キロ、15分圏内で生活が完結できる社会を言う。その狭い範囲で生存が可能だという事になる。其の為人為的な集落が可能になり、その特性において生産者と監督者の役割分担が出来てくる。組織ができるわけだ。生存可能条件が充足されていれば他者からの浸食は起こらないから、平和が維持される。そこに資本の論理は起こらない。

確かに楽だがそこに「進化という」未来はない。自己防衛という本能も惹起されない。しかし環境変化の激変で生き残る事は難しい。「ゆでガエル現象」と言われて久しいが、どこまで自覚しているかは疑問だ。

集団の指導者は群れを維持するためにも「危機感」をあおる必要がある。だから定期的に他社と勉強会をしたり、外部のセミナーを受講したり、先進的な企業の視察をするとかを意識的に仕掛けていく。

特に市場が厳しい中で健闘している企業は学ぶべきものが多い。そこには工夫があり革新がある。発想の転換がある。厳しい環境の中でこそ社員も鍛えられ、企業も鍛えられるという事だ。

微温的な環境の中では軟弱な社員、脆弱体質の企業しかならない。膨張した人権擁護思想の中で「生きるか死ぬかの鮮烈な競争原理にある企業の構成員に育つ」事が必要だ。

「理屈はそうだが、そんな事をする時間なんてできない!」と君が感じるのであれば取りあえず、今まで会ったことのないような人たちに会い、今まで行ったことのない場所に行き、今まで手に取らなかったような本を読むような小さなことから始めてみる事だ。いつもの下車駅ではなく一つ手前の下車駅で降りて歩くのもいいだろう。たまには車ではなく歩いて営業に出かけるのもいいだろう。新しい発見があるはずだ。特に車からの速さでは見えない風景や気づきがあるはずだ。元々人間の処理能力以上のスピードで動かざるを得ない中では、歩くことで初めて認知できる事柄が多い。

当社でも上昇志向はなく、「現在の給与が保証され、継続できる」なら別に齷齪する必要性を感じないと考える社員が増えてきた。失敗というリスクを極端に避けるから、チャレンジングなシーンは望むべきもない。余計なことはせず、目立たず、言われた事だけをする社員の増加だ。

「働き方改革」が叫ばれてから、効率化より時短が先行した為、このような考え方が当たり前になっている。「脱会社人間」の登場だ。「何もあくせくしないで、普通に暮らせればいい」という現状維持型人間だ。かつての中流意識の働き型版に近い。最近目立つのは「しんどい仕事はやりたくない!」若者の増加だ。あまり動かず、考えずにお金がたくさん入る事がいいそうだ。

以前はコンビニで学生が働くのは普通だったが、今では東南アジア系の留学生が殆どのようで、片言の日本語でしかも満面の笑みでレジ応対する。いくら少子化と言えども日本人の学生はどこに行ったと思いきや時給も比較的高く、体力的に楽ができる「居酒屋、ゲームコーナー、ファミレス」にいる。中でも水商売と言われた「クラブ、スナック」が女子学生には人気が高い。時給もファミレスや居酒屋の2~4倍と高給だ。しかも、気に入られれば高級バックのヴィトンや高級時計のローレックスも買ってもらえる余禄が大きい。親もあまりそういう職業に就くことに抵抗感もなくなっているし、かえって良い経験になるからと賛成する母親もいるらしい。問題なのは労働の対価と報酬が一致していない事だ。話の受け手になるだけで、通常の賃金の数倍になる対価を得る事が当たり前になる感覚は異常だという事だ。企業は、こういう若者の存在を前提にした組織構成を考えなくてはならない憂える時代になった。積極性や意欲を盛り上げられるように話すこと、あまり危機感を煽りすぎると萎縮してしまう脆弱な精神構造がある。幹部や管理職の場合は人的リスク管理が重要な仕事になった。

会社の構成員は戦士である以上、常に戦闘意欲を高め臨戦態勢を維持する必要がある。これに加え経営責任の一端を負えというのでは、多くの弱卒を率い負担が多い割に、反対に給付もあまり差がないというなら魅力に乏しい。

働いて生活の糧を得るという労働というシーンは僅か30年で大きく変わった。雇用責任が重視され、労働貴族が誕生した。二重三重に守られた労働者階級の誕生と言ってよいだろう。実社会に出る事で一人前の大人として扱われたイニシエーションはなくなり、世間の目も甘く関心を持たなくなった。観念的個人主義が蔓延するとこういう国になるという見本が、少子高齢社会の到来より世界の注目を浴びるだろう。

                                                                                 社長   三戸部 啓之