会長の独り言

会長の独り言

[ 2021.6.1. ]

287号-2021.6.25

今年も4月から2021年度新入生研修が始まった。

新入生は男性3名、女性6名の計9名である。
期間は3ヶ月に短縮した。従来は6ヶ月の研修期間、6ヶ月の仮配属の後に本配属としていたが、当初の趣旨と違い、腰掛的で研修の成果も上がらず、配属しても戦力として使えないという不満が多かったからだ。内容も概論的、講義的なものが多く、明日から即使えるような内容ではなかった。

現場で求めているのは、クレームの受付け方、現場案内の仕方、管理ソフトの入力、メールの返信等の仕方や内容だ。営業なら不安感のない運転の仕方と、初対面のお客様にも話しかけ盛り上げられるかだ。それも、一応はレクチャーしているのだが、習得したといえるほどは身につかなかった。また、現場を離れた人事担当社員がレクチャーしても現場とは若干ニュアンスが違うようだった。
それに加え、本人の適性と業務の納得性を上げるために「仮配属」という制度を取っている。ミスマッチを避けるための制度なのだが、新入生からすると、自分の適性を確認するという本来の趣旨から離れ、お客さん気分が抜けていないようだった。仕事に対する真剣味が不足し受け身になってしまった。

最近の学生は「いかに楽をするか」「いかに早く帰れるか」が選択の基準になっており、それが仕事の中身うんぬんより、同期の情報交換の要になっている。この風潮を前提にした社員教育が求められている。

当社でも定期的にヒアリングし適性を判断し、不適合ならば早期の転職を促している。数年後に退職するより「新卒ブランドが通用する時期」のほうが転職も容易だからだ。やり方次第では会社の姿勢を問われる問題だが、「パワハラ」「ブラック企業」と糾弾される恐れがあるから企業側は及び腰だ。

ある有力企業では「社員様」という事を徹底しているそうだ。パートナーでもなく戦友でもなく、奉る存在になっている。社員に感謝するという心積りは当たり前だが、「社員様にひれ伏す」という組織は、社長様が社員様に入れ替わっただけだ。どんなに言辞を糊塗しても人間の本質は変わらない。雇うものと雇われるものの構図は厳然とした事実としてある。最悪なのはそこに経営責任というものが欠落しているから、無責任経営が跋扈する社会的価値のない組織になったに等しい。


以前参加したあるセミナーで講師が、「戦略・戦術・ターゲットのような言葉は企業経営の中では持ち出すべきではない!」と言っていた事がある。戦争用語でふさわしくないとの理由だ。幻想的、平和主義的憲法学者の9条論議と同じ思考回路だ。

米国の規制緩和要望の一環として、破産者は犯罪者と同等の社会的制裁を受け、本籍地の戸籍にも破産者と記載されたが今はない。経済成長は企業の新規設立と退出が容易にしなければならないという観点から経営責任を軽減した。その結果、企業は投機商品の一つとして位置づけられ、M&Aも含めた売買が安易に行われるようになった。資本と経営の分離も当たり前になり「専門経営者」という新しい職業まで出てきた。「家業を守る」「企業一家」という意識もなくなった。資本主義的経済が行き詰まると、販路開拓のため「消費者」という対象に視点が集まった。消費者の嗜好に合ったものを提供する事が経営戦略になった。そこで「消費者は王様」という考えが横溢したが、カスタマーハラスメント、モンスタークレーマーを生み出した。

株式会社に入社するという事は営利追及集団に加入する事に他ならないし、競争社会の戦列に戦士として参入する事になる。競争社会とは栄枯盛衰の現場である。強者のみ生き残り弱者や敗者は消えていく社会だ。戦いの最前線なのだ。強靭な組織が必要なのだ。組織員は自らを鍛え即戦体制を取り、組織の長は戦力となるべく部下を鍛えなくてはならないのだ。たゆまざる自己鍛錬と戦士になる為の導入教育が当たり前なのだ。

教育には平等の関係はなく、教える側と教えられる側の上下関係のみがある。それも時間的制約下でだ。戦後の教育に個人主義的消費者思考を持ち込んだため、本来は上下関係である場に対等関係ができてしまった。そこでは「消費者に気に入られる」「費用に応じた教育」が求められることになった。

教師側も以前は聖職として尊敬の対象であったが、今は労働者としての知識を切り売りする立場になった。最近、教職に就く学生は減少傾向にあるという。当たり前だ。教育方針や退校処分や留年が保護者や経営側の意向に左右される中では、信念に基づいた教育など不可能だからだ。「金八先生」は過去のものになった。コレでは教育の崩壊である。

憲法にある「勤労の義務」は、「教育の義務」、「納税の義務」と並ぶ憲法上の基本的義務の一つであるが、これは決して強制労働を義務づけるものではなく、一般には労働の尊厳性を明らかにした倫理的な規定にすぎないと解されている。いうまでもなく、解釈は時代の変遷で変わる。資本主義体制をとる国家では勤労の意義も変わる。企業も同様である。

GDPの長期低落傾向が懸念されるが、挽回策を考える以上当然である。政治も、為政者は政治に関心を向けさせないことが要諦になる。愚民化政策ともいわれる。娯楽やSEX・遊び・賭け事に関心を向けさせ、マスコミはゴシップを意識的に取り上げる。票田を意識するから、どうしても票田の多い政策をとり、それから阻害された国民は益々無力感に襲われ諦念となる。自由をはき違えた個人主義的な考えや行動が当たり前になる。

このような「新しい偏向教育」を受けた若い世代が入社してくる昨今では、採用側も相当防衛意識を持つ必要がある。公平を保つためにもJOB型雇用に基づいた解雇法理の再構築が必要なのだ。
欧米にはセクハラは日常茶飯時に起こるが、パワハラという観念はそもそもない。パワハラなど起こさなくとも、仕事が一定のレベルに達しなければ、又、上司の命令を忠実に実行できなければ「使えない部下」として即解雇できるからだ。企業側からの教育などは不要になる。

現在、日本では解雇権濫用法理というものがあり欧米の様にはいかない。すると、組織の長として暴力や体罰は論外だが、パワハラに抵触しそうな言動も起こりうる可能性も否定できない。解釈上も「平均的労働者の感覚」がパワハラか否かの判断になるという。

解釈上の論理としては成り立つが実務の世界では曖昧模糊として判断できない。傍観するか、当たり障りのない距離を置いて本人の任意での退職を待つしかない。退職を「卒業」と言い換える風潮など最たるものだ。スポーツの世界では「戦力外通告、更新契約不可」と当たり前の事がビジネスシーンでは起こらないし、採用側が費用をかけて育成するなど問題外だ。そういう場面を垣間見ても視聴者自身は違和感がない。不思議なことだ。

自分が戦力外通告を受けたら解雇は当然だとは思わず、不当解雇、パワハラだと騒ぎ立てる。
「窓際族」なんて世界にありえないものが当然視される。判例も雇用の義務を押し付けている。
労働者様の片務な価値観が当たり前の世界になった。コレでは日本の将来は危うい。戦力外通告を受けた社員として使えない人間を抱えて、競争の場に赴かなくてはならないからだ。

必死に頑張るという意識がなければ、組織は強靭にならない。他者より優れたものになりたいと思わなければスキルはアップしない、イノベーションも起こりにくい。
ノルマがなければ目標が設定できない。自分の能力以上のものに挑戦しなければそれ以上伸びない。
普通の人間は上から与えられなければ自ら設定する事は中々できない。辞める自由はあるが、辞めさせる自由がないのが片手落ちだ。

こういう適度な緊張感があればこそ組織の絆が強まり、強固な集団となる。
戦友とは「厳しい競争を共に経験した」から共有できるのだ。そもそも、パワハラの根源的理由は労働生産人口の減少だ。結果的に敗戦という痛手を被った、80年前の安易な「員数合わせ」が現代でも生きている。弱卒を率いた集団を、如何に強力な戦力にするかが経営者の課題になっている。新入生を鍛えなおし、スキルUPした仕事の成果の喜びを全員で味わいたいものだ。

                                                                                        会長  三戸部 啓之

不動産活用レポート

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