189号-2013.4.25  

[ 2013.5.7. ]

189号-2013.4.25  

多くの野球ファンが知っているように、巨人軍から2003年に米大リーグのヤンキースへ移籍し、1年目から活躍。10年にエンゼルスに移籍、その後はアスレチックス、レイズに所属し、メジャーで計10年間プレーした。大リーグ通算成績は1236試合、打率2割8分2厘、175本塁打、760打点。

09年のヤンキースとフィリーズとの間でのワールドシリーズでは、日本選手として初めて最優秀選手(MVP)に選ばれ、チームの9年ぶり27度目の世界一に貢献した。11年7月には、日米通算500本塁打を達成している。

しかし引退の直接の契機は、「戦力外通告」を受け、引き受け球団が決まらなかった事にある。

これを当然のことと受け止めている我々が、こと自分の職場で実質的「戦力外通告」を受け、配転や退職勧告をうけると、なぜか「不当解雇」「地位の乱用」「社会的弱者切り捨て」と騒ぐ。

さらにその企業は「サービス残業」「不当配転、降格」「パワハラ」の常習企業となる。この企業は、昨今ベストセラーになった一橋大学院生の今野晴貴氏の「ブラック企業」の範疇に入る。

著者は1983年生まれの30歳だ。名指しこそしていないが、それとわかる、富士通、ソフトバンク、ユニクロ、ワタミ等有名大手企業がブラック企業の烙印を押されている。三流出版社から出ている書籍ならこうも話題にならなかったが「文芸春秋社」からの出版で、キャッチコピーが「ブラック企業が日本を壊す、正社員使い捨ての時代への処方箋」となればインパクトがある。この書籍が大多数の読者に支持されている事は首をかしげるが、「いかに企業側の論理に屈しないか」が書いてある点も昨今の雇用状勢の厳しさが一つの理由になっている。つまり「絶対に企業側の都合で辞めるな」とその支援団体まで紹介している。企業の社会的責任云々は雇用問題に絞れば「魔女裁判」に等しい。

そもそも「ブラック企業」とは「暴力団のような反社会的団体やそのフロント企業との関係がある企業」を言っていたが、英語圏でも「スエットショップ:Sweat Shop」中国語圏ではもっと露骨に「血汗工場」と呼ばれているので、この手の企業はどこでもあるという事になる。昔の奴隷や「タコ部屋」ならいざ知らず、憲法にも保証される職業選択の自由があり、就社する自由や退社の自由がいつでも認められる中では、額面通り是認できない。そこには雇用側の論理が欠落しているからだ。

つまり、企業の存続は利益を確保しなければできない事だ。利益を確保する為に固定費の大部分を占める人件費を削減する、生産性の悪い社員に退職勧告する、福利厚生費を削るのは企業が生き延びるために必須なことばかりだ。倒産の責任はだれが負うのか? もちろん彼らは経営者だというだろう。我々は資本主義経済を選択したのだ。競争社会で生き延びる事が最大多数の幸福と選択したのだ。20世紀最大の歴史的実験といわれる「共産主義社会」は70年しか持たなかった。その理想とは別に官僚主導や計画経済は破綻した。その支持者はまだ過去の亡霊に取りつかれており、切り口や論理は違うが、いつの世になっても階級意識から社会構造を俯瞰している。不景気であっても、好景気であっても、「虐げられた労働者」は変わらない。米国社会には共産主義は決して根付かない。差別も厳然としてある。レイオフも日常茶飯事だ。犯罪発生頻度も日本とは比較にならない。

貧富の差は想像を絶する社会だ。それでも「アメリカンドリーム」を目指し「正義を標榜する社会」である。勿論様々な社会問題を抱えているし、あまりに貧富の差が開くことは社会的混乱を招き、徹底した自由市場経済はかえって効率が落ちると経済学者も指摘している。このままでは絶望的な社会が到来するともいえる。しかし、そうであっても今野氏のような書籍がベストセラーにならない精神風土がある。

ある意味で努力が報われる公平な感覚のある社会だともいえる。優勝劣敗は組織維持の要諦だ。

さて日本の景気低迷の大きな原因の一つとして、「雇用の流動化」ができていないことがある。

格差社会をもたらすものとして、完全雇用が強制され、累進的所得税率による所得再分配がアメリカ型億万長者の輩出を抑止している。日本では失業率が景気浮揚の阻害要因と見るより、年金制度の崩壊、社会不安、企業の雇用責任欠如と捉えている。問題は失業率の多さや受け皿の問題ではなく、その失業者の再雇用率、教育問題なのだ。つまり汎用性のある労働観、市場原理に基づいた給与制度、外国人雇用のハードルの低さがポイントなのである。救済よりも「労働させる環境つくり」が必要なのである。むかし総理大臣にもなった池田大蔵大臣が「貧乏人は麦を食え」といって世間の非難を受けたが、優勝劣敗の当たり前の競争原理はもはや望めない日本社会になった。

そこから「勤労の尊さ」はなくなり「勤労しなくても国家が面倒を見てくれ」働くことが馬鹿馬鹿しい世の中になった。「モウレツ社員」は過去のものになり、却って「社畜」と蔑まされる。

一旦入社すれば、どんなに仕事ができなくともあまり給与に差がつけられない、馘首されない、社命による転勤や配転にも「内示」があり根回しが必要とされる。最近では居直りも含めて「社畜の薦め」もある。どんなことがあっても「しがみつけ」の勧めだ。辞職する場合は法外な退職金を要求せよと、通底する思想は今野氏と同じだ。労使共同体は過去のものになった。勤労を崇高とする精神も無くなった。そこには我と我のせめぎ合いしかない。同じ「飯を食った仲間」意識はない。

人間は社会的動物である点を忘れている。ひとりでは生きていけない事を忘れている。

だから互譲の精神が必要とされた。しかし過ってそれを統治の手法として悪用された歴史のトラウマから、東京裁判史観という形で全て否定された。一部の軍人の米国の占領統治の理想形として試みられたに過ぎない様々な社会改革の一つだったが、戦後70年近く見直しもされないできた制度疲労とも考えられる。それが偏頗な労働史観につながっている。

退職させようにも「解雇させる合理的理由」が必要とされる。経営判断は時間との戦いだ。社会情勢や景気の変動、顧客ニーズは予測ができない。難しい法理論はわからないが、硬直的な法理論で律せられるほど企業経営は簡単ではない。ともあれ、そこで企業経営者は「社員教育」で、再戦力化を目指さなくてはならなかった。それも時間外にすれば「残業手当」の対象になる厳しいものだ。「不良品・賞味期限切れ」の再活性化だが、そこまでしないといけない受け身の雇用社会ともいえる。かって日本は世界に冠たる経済を誇った。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称賛されたこともあった。その原因の最たるものは、「企業戦士」と言われた「猛烈サラリーマン」が支えた社会だった。アメリカのホームドラマに出てくる「豊かな家庭」目指したのだ。三種の神器は時代と共に変化した。欲望は行動の源泉だ。満たされた社会には、個人の内面にしか関心がなくなる。「自分にご褒美」は、誰でも簡単に到達できる目標だ。そこには家庭も含めた第三者への気配り、関心はない。

1929年にオルテガ・イ・ガセットが著した「大衆の反逆」とは、「凡俗な人間が、自分が凡俗であることを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにある。その責任は、すぐれた少数者の指導やリーダーシップの欠如にあり、彼らが大衆に生のプログラムを与えなかったことに由来する」と説いている。最近の政治状況を見ても言えるし、これを論理のすり替え、個の独立、尊重と言い換えるが、その本質は、明確な目標が喪失したことに他ならない。世間の風潮に反して当社こそ「近代的家長制共同体意識」を持った組織にしたい。  

  社長 三戸部啓之