会長の独り言

会長の独り言

[ 2022.5.2. ]

298号-2022. 5

 2020年2月のダイヤモンドプリンセス号での新型コロナウイルスの感染拡大から丸2年が経過したが、その後新たな変異株が次々と発生し、コロナ禍は未だ収束には至っていない。


 ウィズコロナでは様々な変化が起こった。会社は仕事をする唯一の場所ではなく、情報交換やコミュニケーションの場としてとらえられた。デジタル化の進展に伴い在宅勤務やワーケーションも当たり前のようになった。会議もZOOMでのリモートが当たり前になり、移動ロスがなくなった。

たった2年で働き方改革が自然発生的に起こったのだ。しかし良い事ばかりではない。認知症患者が増えたり、鬱をはじめとする精神疾患が増加したりした。早急な就労環境の変化がプラスとマイナス面を現実化した。

 2019年度・2020年度・2021年度の新卒の新入社員が各一名早々に退職したが、原因は間接的にはコロナの影響は否定できない。縦の情報だけで横の情報がなくなったのだ。ガス抜きという場がなくなり、相手からの非公式意見や同調を得る機会がなくなった。自分自身で悩み解決するしかなくなり、そういう訓練や体験をしていない世代が社会に出て直面してしまったからだ。

 当社でもコロナ以前は定常的に開催していた拠点別の懇親会や打ち上げ、社全体の社員旅行、忘年会、上期・下期の発進大会は全てなくなった。就業外でも三密を避けるためカラオケの禁止、イベント会場への自粛等の行動制約があった。そのうえ残業は禁止となり、在宅勤務も3割になれば、益々社員同士が接触する機会は激減した。

 ネットでの飲み会も一時流行ったが、画像相手に飲み会をしても意気が上がらない事この上なく、早々に衰退した。コレでは不満が鬱積するのは当たり前だし、この解決策も有効打がなく、イラついた2年だったに違いない。

 リモートワークや在宅勤務が進んで、少なくなったことの一つに雑談があるといわれる。ZOOMなどを使って仕事の打合せや報告を行うことはあっても、ちょっとした雑談やおしゃべりを行う機会は以前よりも少なくなったのではないだろうか。

 オンラインで会議や打合せをやる場合、直接会ってやる場合に比べると、どうしても意思疎通が難しい側面がある。このため、資料を用意したり、説明に工夫を加えたりしないと、伝わるものも伝わらない事が多い。これはこれで、伝えるべき内容を精査するという点ではすごくメリットがあるが、一方で「ちょっと本題から離れる話題」「打合せの内容とは関係ない項目」などは、どうしても排除される傾向にある。

 仕事の効率化という点では「目的をはっきり決める」「目的に沿って内容を簡潔に伝える」事が出来、「その内容に関係ない」ことは排除するのに適している。また、オンラインでは皆が考え込んで黙ってしまうと、微妙な雰囲気になりやすい。このため、誰かが何か発言していないと気まずくなるので、特に異議がなければ次の話題に移るという流れになりがちだ。

 けれども、効率化が進めば、それで満足するという訳にはいかないのが人として難しいところで、下らない会議は「早く終わってほしい」と感じても、人からすれば下らないかもしれないが「自分の話はちょっと聞いてほしい」と思っているはずだ。対面なら相手の表情や声色で判断も可能だが、オンラインではその辺の微妙さが読み取れない。だから平気で話の腰を折るし、話を真剣に聞くという相手に配慮した行動もない。無機質な言語上の応酬が続くだけになる。

 会話も議論して了解点に至る事もなく表面的な議論に流れる事も多くなる。結果的に相手に印象が残る言葉は「簡潔な言葉、結論」だけが有効となる。かつての小泉政権の「ワンフレーズ・ポリティクス」が有効だという事になる。「YES・NO」の択一選択で事が進むようになる。これは考えてみると非常に危険な考え方だ。相手の意思を一方が抑制する事になり、分断化し差別化につながる。衆議一致する事ではなく専制に陥りやすい。日本的悪弊と言われた「根回し」が見直されている。結論に至るまでの経緯が重要なのだ。単なる理屈で人は動かない。感情という起爆要因が必要なのだ。あいつの意見なら反対だとか、人に対する好悪が結構結論を左右する。欧米にはない「腹を割って話す」という時間が必要だし、「腹芸」で違った結論に導かれることも多い。時には同調圧力にもなるが、異端児を排除する国民的気風は変わらない。

 社員との対話を増やすために会社版「徹子の部屋」を作っている企業もあるらしい。仕事で定期的に報告は上がってくるものの、それだけではカバーできない部分を気軽な雑談の場を設けることで今後の経営に活かそうとしたのだそうだ。会話を円滑に進めるためには、豊富な語彙力と運用力、日本語力の問題、話し言葉として練習する機会が必要だ。

 先日聞いた話だが、とある金融機関で欧米人のビジネスパートナーが来日した時に、英会話ペラペラの帰国子女の社員が相手をしたが、不愉快そうに早々に打ち合わせを切られた。不思議に思った彼女の上司はその欧米人に尋ねたところ、「何故あの小学生レベルの会話しかできない社員に応対させたのか!」とクレームを受けた。話せることではなく、相手のレベルに応じた内容の話が必要だという事だ。

 この手の訓練はディベートを当たり前のように考える異民族国家の欧米とは違い、国内では皆無に近い。会話の勉強不足もあり、言葉で上手に言い返す練習ができていないから、相手の言葉に直接反応してしまい、争いに発展する事も多い。アサーション(自己表現)トレーニングが必要なのだ。論争になっても、わが国では誰々を論破する事が目的となり、人が目的語になり日本式舌戦に陥りやすい。フランスでは議論の対象物を目的語にするから議論は活発になる。怒らない人、自分の意見を言わない人は良い人ではない。自分自身と上手にコミュニケーションが取れる人が、大人のマナーを持つ人と評価される。それは自分の心を守るものにつながり、自分の判断と行動に責任を持つという事につながる。日本できちんとした個人主義が根付かないのも頷ける。

 そもそも、権利というものは血を流して勝ち取るものだが、わが日本では上から突然与えられたものに過ぎないからその価値が理解できない。だから好き勝手な解釈が跋扈し、行き過ぎた個人主義だとか、自由主義を制約しろ、とかに直結する。自由、平等、個人尊重、平和主義は全てが結びついているのが理解できない。だからそれに抵触する事案にはサヨクもウヨクも極端に反応する。

 戦前は鬼畜米英、専制主義から敗戦後一夜にして民主主義に変貌して違和感を抱かない国家と国民である。国家総力戦という物量戦にもあっけなく負け、思想戦にも負けている。そんな御しやすい国家と国民は何処にも存在しない。抵抗権という言葉が法哲学上明確に論理づけているが、やはり地に着いたものではなく、欧米からの輸入品に過ぎないから、学者の言葉遊びに終始している。

 権利を守るという事は死を覚悟するのが一般的な事だが、国内の学者や知識人はその覚悟がないから、いつでも時の権力者に迎合する。その彼らが上げる言辞は空虚だと見抜かれている。だから政治家や学者は尊敬されない道理かもしれない。

                       会長  三戸部 啓之

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