255号-2018.10.25

[ 2018.10.1. ]

255号-2018.10.25

 

最近の若者は「礼儀を知らない」という。当社でも同様だ。こんな例がある。

あるお客様から、帰り際に「今までお世話になったので・・・」とお礼の品を頂いた。勿論その時点では「当然のことをしたので・・・」と固辞したが、お客様の好意に甘える意味もあり一端は受け取り持ち帰った。当社の規定では金員は全て所属長を通して報告し、その所属長の判断で会社の経理に入れるか、福利厚生費として使用させていただくか、になっている。基本的に社員個人の所得にしてはいけない事になっている。

 

そして、所属長や、代表者から電話や礼状を送付したり、自宅まで訪問する事もある。会社としての公的立場でお付き合いしている以上、当然だと考えているからだ。

その辺の事情を知る顧客が、「これは貴方個人に対する気持ちだから・・・」と善意で社員個人に渡す例がある。その場合、会社への報告は当然だが、内容によるが上司の判断で当の本人に任すこともある。唖然としたのは、其の場合本人の返礼がないことが多かった事だった。

普通「半返し」といって頂いた物の半分を、お返しするのが古来の習慣だったはずだ。そういう感覚でいたのだが、今の若者はその感覚がない。頂きっぱなしで終わる事が多いらしい。

それも仕事をした結果だし、私個人が頂いた物だし、その場でお礼を言っているのだから不要だという認識なのであろう。つまりお礼と対価関係にはないという認識である。

そんなことには頓着しないようなイタリアでさえ、英語の「プリーズ」に相当する「プレーゴ」という言葉がある。そしてこの「プレーゴ」にはもう一つ別な使い方がある。それは「グラッチェ:ありがとう」に対して「プレーゴ」と答えた場合、「どうぞ」ではなく「どういたしまして」の意味になるという。これは自分がした親切に対する相手からの感謝をそのまま全部受け止めるのはなく、半分返すものだからである。人間関係とは「ありがとう」と言った時に、それでそのまま終わるものではない。「どういたしまして」と言って半分返す事でより緊密になる事は間違いがない。

50%のアクションで100%の経済効果が得られ、村社会日本独特の習慣かと思ったがヨーロッパでも通じる世界標準な文化なのだ。

その辺の事情を知る顧客が、「これは貴方個人に対する気持ちだから・・・」と善意で社員個人に渡す例がある。その場合、会社への報告は当然だが、内容によるが上司の判断で当の本人に任すこともある。唖然としたのは、其の場合本人の返礼がないことが多かった事だった。

普通「半返し」といって頂いた物の半分を、お返しするのが古来の習慣だったはずだ。そういう感覚でいたのだが、今の若者はその感覚がない。頂きっぱなしで終わる事が多いらしい。

それも仕事をした結果だし、私個人が頂いた物だし、その場でお礼を言っているのだから不要だという認識なのであろう。つまりお礼と対価関係にはないという認識である。

そんなことには頓着しないようなイタリアでさえ、英語の「プリーズ」に相当する「プレーゴ」という言葉がある。そしてこの「プレーゴ」にはもう一つ別な使い方がある。それは「グラッチェ:ありがとう」に対して「プレーゴ」と答えた場合、「どうぞ」ではなく「どういたしまして」の意味になるという。これは自分がした親切に対する相手からの感謝をそのまま全部受け止めるのはなく、半分返すものだからである。人間関係とは「ありがとう」と言った時に、それでそのまま終わるものではない。「どういたしまして」と言って半分返す事でより緊密になる事は間違いがない。

50%のアクションで100%の経済効果が得られ、村社会日本独特の習慣かと思ったがヨーロッパでも通じる世界標準な文化なのだ。

団塊世代は、「お返しは」当たり前だと認識している。稀に気にしない方もいるが、それが世の常識というものだと思っていた方がよい。京都の「ぶぶつけ」ではないが言われなくても、その場の雰囲気や言葉尻で「忖度しろよ!」という事である。こう言われる前に、相手の深層心理を感じ取り、一歩先を行く行動は我々のようなサービス業では必要な基本スキルである。特に対面販売ではなく継続的なお付き合いをする賃貸管理業では顧客の詳細な情報は把握しているはずであるから、「言われる前にやる!」という基本姿勢は顧客との人間関係つくりには絶対に必要である。

そもそも、コミュニケーションとは、気配り・気づきの能力であり、しかも一方通行ではなく双方向である。商談前にあらゆる手段をもって状況を把握し、相手の一挙手一投足を注視しなければならない。
例え、昨日お会いした相手でも今日は別人と見なければならない。辞去した場合でも相手の表情、仕草をよく見なければいけない。ちょっとした変化に気を付けなければいけない。

よく言われる事がある。優秀なビジネスパーソン程、「接する時は自信家のように、去る時は臆病者のように!」なっている。先の例でいえば、お礼を言われて悪い気を起こす顧客は少ない。其の丁寧さにも一定のレベルはあるが、やって問題を起こすことは少ないはずだ。返って「律儀な人」という評価がされるプラス要因にもなる。

特に家賃やその他の金員を常にお預かりしている関係から、「人間的に堅い人」は「ごまかさない人」と言う評価につながる。他のビジネスシーンでも「あの人の言う事なら・・・」「あの人の提案なら・・・」と好結果につながるので、業務への影響は大きく会社への評価にも波及する。一時の弁舌さわやかな他社の社員に心を動かされたことがあっても、最終的には必ず「信頼の預金」があるところに口座を開設するはずだ。

もし、君が顧客との人間関係が上手くできていないと思うなら、このような小さな態度や日々の行動を振り返ってみるといい。何気ない「挨拶、仕草、話し方、期日の設定、口約束、不明確な答え等」が、障壁になっていることがある。これを是正するだけで今までと違うシーンや反応が出てくるかもしれない。
学生と違い社会人は100点以外全て不合格なのだ。80点なら大学では「優」だし本人も満足だろう。この辺を錯覚すると反省どころか「顧客に責任を転嫁する!」最悪のパターンになってしまう。当社でもこの手の社員が多く、成果も今ひとつだ。早く気が付けばもっと伸びるのにと思う「残念な社員」もいる。その社員に限って、自意識は人一倍あるから周りも忠告しずらいし、反論も倍するから上司もためらうマイナスのサイクルになっている。貴重なチャンスを自ら放棄したことになる。原因と結果の法則から言えば、君の結果は何らかの原因があるから必然的に導き出されたものだ。だから、結果が君の予想と異なるなら、まずその原因を探るべきなのだ。小まめな検証こそ自分自身をスキルアップする最短距離であることは世の先達が証明している真理なのだ。

言い古された言葉だが、「意識は行動を作り、行動は習慣を作る」「習慣は人格を作り、人格は運命を作る」のだ。「何をしたい、何になりたい」という意識が必要だし、其の為の最適な行動がある。

新入生教育はまず、何処でも形から入る。挨拶の仕方、名刺の出し方、話の効き方、ビジネス文書の書き方、質問の仕方、発表の仕方等々貴重な時間と費用を使い実施している。そこでは「社会人としての自覚」「社会人としてのマナー」もバカバカしい位やらざるを得ない。まるで、「○○株式会社学校」に近い。違うのは逐一教えてあげるのに、教えるほうがお金を支払う事だ。それがビジネスの入り口になるからだ。非常識な人間だとして玄関払いされては全てが無駄になる。

こんなコストを負担しているのは日本だけしかない、欧米では入社した瞬間から仕事を与えられ、一定の基準に達していなければ即解雇になる。新卒という概念もないし「何ができるかで採用をしている」からで勿論年齢も関係がないし、新卒一括採用なんて言葉もない。日本では成果主義という言葉が「忌避される言葉」としていつも話題になるが、営利企業に就職するのは異義復言しているようなものだ。日本特有の新人研修を踏まえていえば、古来「學」とは、雛鳥が親鳥の真似をして羽ばたきを覚える事を意味し「校」は枷を科す事を意味する。つまり、学校は先輩の真似をする事を強制する場所なのである。それを英語でスクールと言えば「スコレー:暇」を利用して、あれこれ思索したり議論したりすることを指すが、それは教育が高等の段階に達した時の話で、それまでの教育は強制を旨とするほかない。厳密に言えば「教」が徳義を教え込むべく鞭打つ事であるのにたいし、「育」は子供が女性のお腹から産まれてくること(産婆役を勤める)を意味する。つまり、教育には本来的な矛盾がはらまれているのであって、子供に強制を施すか、それとも子供の自発性を手助けするか、と言った逆方向の作業が伴わざるをえない。
これは方法とやり方を誤れば「ブラック企業」にもなる。

「修行」という言葉も言われなくなって久しい。それを口やかましく言う先輩こそ貴重なのに。

                                                                                                  社長   三戸部 啓之