271号-2020.2.25

[ 2020.2.1. ]

271号-2020.2.25

日本語が通じない!これは外国人の話ではない。正真正銘の日本人の若者の話だ。

当社では毎年3~6人の大卒新入社員を迎えているが、コミュニケーションに苦労している。昔あった「阿吽の呼吸」というものがないのだ。

「これを言えば、これも当然やるだろう!」という仕事が期待できないのだ。言われたことだけで、終わることが多く、依頼者から当然に予想される質問や疑問点を加味しない。言われれば当然のようにアクションを起こすが「仕事が中途半端だったな」「そこまで予想してやればよかった」とは思わない。それが続くと、私の上司は「指示の仕方が中途半端だからやりにくい」「きちんと指示しない」という苦情になるから、上司からすれば「何をか言わんや」という気持ちになる。文句の一つでも言おうものなら「横暴」「無責任」という糾弾にもなりかねない。受けた仕事の意味が理解できていないのだ。「言う事はできるが、背景を考えることができない」から話が直線的だ。

同じ職場で一日7時間も顔を合わせていながら、いちいち具体的に言わないと、こちらの真意がなかなか伝わらないのだ。相手から「くどいな!」と思われるくらいのレベルで話さないと伝わらないのだ。まさに手取り足取りの感覚だ。当然、中間報告もないから当初予定したものが出来てこないことも多い。中間で是正することもないから結局時間の無駄になる。

メモを取らないことが原因かもしれない。以前は上司の指示は一言一句聞き逃さないようメモを取ったものだ。それが相手に対する礼儀でもあった。どれほど記憶力が良いのか知れないが、最近の若手社員はメモを取らない事が多い。

メモの効用はいろいろある。本人の備忘録の意味もあるが、相手との会話の経緯を残すという意味合いもある。更に相手との齟齬を防止確認するためにもある。昨今のように言葉自体に意味の食い違いが度々発生するようなら、メモを読み合わせることでそれを防止できる。

「エビングハウスの忘却曲線」というものがある。人間は20分後には42%を忘却し、一時間後には56%を、1日後には74%を、1週間後には77%を忘却する。何度も何度も復習する内に、この忘却曲線の減り具合のスピードがどんどん緩やかになっていく。脳の海馬と呼ばれる器官に長期記憶として判断されるというものだ。だからメモの有用性を意識しなければならない。言葉を正確に話し、意味を確認し、メモに残す。ビジネスの基本になる。

振り返ってみれば「言葉の劣化・乱れ」は以前から有識者に指摘されていた。十数年以上前に流行った「ポケベル」が拍車をかけたようだ。短文で絵文字や略語・符丁を頻繁に使い、感情や表現を言葉で表すという事が少なくなったから、語彙も少くなるし表現もワンパターンになりやすい。若者の間では数十単語だけで会話が成り立つといわれている。それほど言葉のやり取りが少なくなった。更に長文が不要になるから隠語や略語がはびこり、益々日本語が乱れる。言語は文化だと言えなくもないが、言葉が持つ深遠な背景や意味を抹殺する行為だといえる。言葉の乱れは亡国につながるという指摘もある。先達たちが「言葉の乱れを指摘している」のも意味のないことではない。

語彙の不足は読書量と相関がある。外国の例を見ると一日の読書時間はフランス52.7分、アメリカ・ドイツ43.9分、日本34.4分で主要国では最下位だ。大学生のデータでも純粋読書22.2分、純粋読書+教科書40.5分、純粋読書+教科書+コミックス70.5分となっている。

さらに問題なのはスマホの閲覧時間で、2~3時間が24.1%、3~4時間18.5%で、その内の大部分がゲームというから驚きだ。これでは高尚な会話など望むべくもないし、『わびさび』という風雅な形容も表現できないのは明らかだ。文化の伝承はもちろん、外国人に日本文化や伝統を伝えることも不可能だ。

企業という小さな組織体でも意思疎通が難しい中で、グローバル言語として英語と中国語が脚光を浴びている。2020年4月には小学校3年生から英語教育が始まるが、その是非をめぐり意見が分かれる。

賛成意見として
   ・早いうちから英語教育を始めた方がいい。
   ・母国語以外の言語を、小学生のうちから始める国は他にもある。
   ・英語教育をしている学校と、していない学校があるため、差がつかないようにする。

反対意見としては
   ・日本語を先にしっかりと習得するべきだ。
   ・自分の気持ちを話すためには、まず母国語でその力をつけるべきだ。

今の英語教育の仕方のままでは結局は役に立たない。
等々がある。しかし、日本語が乱れに乱れている現状では、先ずきちんとした日本語教育が大事だと思える。ビジネスシーンで、これ程意思疎通に問題がある点から見て企業側としては当然だろう。きちんとしたコミュニケーション手段を持たない国民は統治機構にも支障をきたすし、国民としての矜持もなくなる。パワハラ・セクハラと騒がれているのもその一端は語彙不足にあるのではないか。

話が大分それてしまったが、社員教育と称して企業が当然の様に「言葉使い」「文章の書き方」「挨拶の仕方」を訓練させること自体異常である。企業は即戦力を求めている。社員は最前線にいる。すぐに使える人材を求めているのだ。

「精神を鍛える」という事も言われなくなって久しい。平和ボケの中では自分自身に加重される精神的負担となるすべての事柄に拒絶反応を起こす。我慢・耐えるという観念がなくなるから「忠告、助言、注意」は余計なお世話になる。
個人主義・自由主義が絶対価値になるから自分至上主義で孤高になりやすい。自己の領域に侵入する輩は誰であろうと排斥する。その反撃がパワハラ、セクハラ等の表現手段だから善意の対手は戸惑うことになる。それでは組織として脆弱になるし、傍観者が続出することになる。

そもそも、欧米諸国にはセクハラはあるが「パワハラ」という観念はない。日本独自のものだ。そんな新しい観念を持ち出さなくても、名誉棄損(刑法230条)、侮辱(刑法231条)、傷害(刑法204条)暴行(刑法08条)が適用できる。

思うに、パワハラをはじめ、これらがマスコミを賑わしたのは、司法制度改革で司法試験合格者を3000人に増やし訴訟を円滑にし、弁護士をはじめ法曹人口を増やす事に共振している。

法曹業界がこぞって反対の狼煙を上げた為、現在は1500人規模に縮小した。反対の理由は法曹の質が低下するという業界人以外は理解に苦しむ理由だったと記憶している。
しかしこれにより弁護士は増加しビジネスとして様々な事案を渉猟しだした。敷居が下がったため、個人の権利擁護を理由に何でもかんでも訴訟に持ち込むことになってきた。
我慢と耐えることを知らない人たちの増加が彼らにビジネスチャンスを与えたわけだ。

企業も上司も訴訟当事者になりたくないものだから、社会人としてのマナー教育や叱責も及び腰になってきた。マシュマロのようなフワフワした軟弱な若者たちが跋扈する日本は、弱肉強食国からは好餌の相手であろう。

                                                                                                       社長  三戸部 啓之