社長の独り言

社長の独り言

[ 2020.3.1. ]

272号-2020.3.25

「お客様は本当に神様か?」
日本の小売・サービス業では、「お客様は神様である」という言葉が当たり前に流通している。通常は「お客様を神様と思って徹底的に奉仕せよ」という意味で用いられる。そもそも神は奉仕する対象なのか!一見、非常にもっともらしい言葉のように聞こえて、その内実には違和感がある。

 

 


三波春夫の「お客様は神様でございます」が一役買っているのは間違いないだろう。「徹底的に奉仕せよ」というよりも、お客様によって生かされている自分の芸人としての立場や、もともと神に祝詞を捧げることから始まった芸道の本質なりを意図して語った言葉らしいが、時の経過と共に本来の趣旨が歪められてきた。

外国に行けば、日本国内の接客事情がいかに異常なものと再認識するはずだ。

 

まず包装紙を見てみると、これ程丁寧に包む国はない。まさに芸術品に近い。しかも包むスピードが早いし、外国人から見れば神業だろう。外国ではせいぜい袋にポンと入れてホラッと渡すだけだ。店員の挨拶も愛想がない。要するに態度がでかいのだ。店員と顧客は対等で、買って頂いたという意識はない。物品の対価は金銭相当だから、それ以上は過剰サービスということになる。たまに店員の笑顔があるぐらいで、買って頂いたという感じはない。ある面、自社の商品にプライドがあるという事にもなる。欲しくて買いに来たのだから、対価で売るという感覚だ。

包装にも贈答文化がある。「お礼という非日常的な行為」を村落共同体ではあからさまに出すことは周りからのねたみの対象になるから、隠すという『風呂敷文化』が発達した経緯もあるだろう。袱紗などもその変形だし,熨斗袋も中身がわからない仕掛けになっている。お渡しするときも、へりくだって「つまらないものですが・・・」「お口に召さないと思いますが・・・」「些少ですが・・・」とあるが、外国人が聞いたら、なんでそんな物を大事な人に差し出すのだ!という事になる。つまり、日本では、あからさまにしないことがエチケットなのだ。「はしたない」という言葉は今や死語になったが、最近では「奥ゆかしさ」も日本人の美徳ではなくなった。それでも包む文化が残っている背景には、包んであるもの「高級品」、包んでいないもの「普及品」という判断があり、包む手間が心を込めている意思表示になるからだろう。

省資源が叫ばれて久しいが、この過剰包装問題が一向に解消されないのは、日本人の深層意識に旧来の贈答文化の残滓があるからだが、ネットによる通販や自販機が普及するに従い、包む文化も衰退していくだろう。それに伴い店員の態度も「売り子」ではなく「コンサル担当」に変化する。「買って頂いている」から「欲しいなら、買ったら」の変化だ。

外国人店員のそっけない態度を、わが日本人はそれが当たり前と感じているようで、帰国後もクレームということを聞いたことがない。これが国内ならあの店はサービスが悪い、感じの悪い店という事で、SNSあたりで炎上するに違いないが、これもとんと見たことも聞いたこともない。よく言われる欧米人コンプレックスかもしれないが、日本人特有の「郷に入れば郷に従え」の従順さの表れだろう。

 

歴史的経緯を見ても「士農工商」という身分制度の中で「商」は一番下にあったことも影響しているともいえ、生産を行わない商人というものに生理的蔑視があった。

この身分制度は、統治の上で江戸時代中期まではうまく機能したが、生産に従事しない町人という新しい階級が都市部で出現した頃からギクシャクしだした。従来のコメを中心とした農本主義から貨幣と流通という前期的資本主義へと変容したからだ。

しかし、現代ほど流通機構が発達していなければ、需要に対する供給は制限され「売ってあげる」時代が続く。少子化が進み、マーケットが縮小し「買ってあげる」時代になると立場は逆転する。『消費者様』の出現になり、こびへつらう事が当たり前になってきた。消費者の横暴にも耐えろという事になるが、ここに来て若干風向きが変わってきた。人権という概念がでてきたからだ。

自然権的な人権概念を持ちださなくとも「対等」と「お互い様」という事であれば解決する。消費者は生産者でもあるからだ。戦後の過度の権利意識の反動ともいえる。

社会規範が機能しない社会は殺伐とした闘争社会である。外国人の態度に違和感がないなら、挨拶とか笑顔とかは本質的な来店動機や購入動機とはならないのではないか。価格にあった品質があれば良いことになる。

以前、カリスマラーメン屋の店主が食べに来た客に「食べ方が悪い!」「胡椒をかけて、俺の味を変えるなら出ていけ!」という暴言に近い言葉を投げるのを、面白おかしく報道して、それを目当てに客が殺到した珍事があった。その店主のラーメン道や人生訓を聞きに来るのが楽しいとか、人生相談をするという訳のわからない客で流行った店もあった。別にラーメンを食いに行ってお説教を聞きたいとは思わないが、先の品質と価格の等価という面では立派に成立していた。

また悪いことに、国家も消費者保護を前面に打ち出している。製造業者も含めて販売者は圧倒的な情報を持っているのに対して消費者はそれに疎いから、一方的に不利な条項は無効とする『消費者契約法』という法律がある。これを拡大解釈されると売り手は防御策がない。しかも相手はSNSという情報拡散手段を手にしている以上お手上げだ。

たちの悪い客はそれを振りかざし、自分の要求を強弁する。評判が店の売り上げに直結するとなれば、毅然たる態度は取りにくい。さらに『個人情報保護法』が追い打ちをかける。身分を隠して言いたい放題である。一部の悪徳業者の防衛手段だった法律が、善意の業者を巻き込むいい例だ。新聞報道でもあったが、スーパーマーケットの店員の態度が悪いと客が怒り出し、店頭で土下座させた例など、外国では絶対に起こらないような事が日常的に起こる異常事態だ。
人権が絡む事案は警察が及び腰になる。戦前の反動だろうか、人権保護のアナウンス効果が大きい。被疑者はまだ犯罪者ではないという論法だが、戦前のような社会的制裁や、社会人としてのイニシエーションがない現代社会では、外見は立派な大人だが中身は幼児レベル、相手への忖度も手加減もできない大人が増えている。その原因はいろいろと言われるが、敗戦によるGHQの占領政策も大きいのではないか。日本は欧米と違い、人権を戦い取った経験がない。ある日突然にお上から与えられたものだ。沿革がないから拡張解釈も可能だ。義務という反面が希薄になり統制が取れなくなる。知識人も国家に対する個人という観念があるから、どうしても個人に重きを置き暴走する。

共同体という枠をきちんとはめないと、義務という概念がなくなる。このままでは、エイリッヒ・フロムの「自由からの逃走」で指摘されている事態が起こりかねない。

我慢という言葉も知らない人間が増えている。しかし結果的に我々が創造した人間達なのだということも忘れてはならない。

                                                                        社長   三戸部 啓之

不動産活用レポート

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